藤崎 理映子

 Rieco Fujisaki
2023.02.02  Blog
夜明け前には -2-

だけど、

 

思うように思考や体が動かないということを

必死に解決しようとしたり、もがかなくてもいいかもしれない

 

と感じ始めた。

 

闇をどうしてなるべく消そうとするのだろう??

 

例えば、今私が病院に行ったなら

きっと”うつ病”の類で診断されると思う。

 

意味もなく涙が出ることもよくあるし、

心が詰まって、目の前の大切な時間を、大切に見つめられない。

 

病院では、きっと鬱の状態をなるべく消し去って

通常運転が開始できるように、この世界に対応できるように

色んなもので変えてくれようと力を貸してくださるかもしれない。

 

 

だけど、”病”という名前がないならば

それは人間にとって大切な感情のゆらぎであって、

今のこの時間も、

もしかしたら光いっぱいの時間よりも大切な時間かもしれない。

 

大抵こういう時に音楽が生まれたり、人生の大きな気づきに出逢えたりする。

私の曲 “NEVER.” を書き上げたのも、ちょうどこんな心の時期だった。

 

病、悪いもの、消さなければいけないもの

と、なんとなく刷り込まれているから

 

そんなことになってしまった自分への失望や焦りや、

空虚感、無気力が増してきてしまうけれど

 

光と闇はどちらも消してはいけない、

ただそこにお互いが必要だからある、大切な要素。

 

 

夜を知らない人が突然夜を体験したら

 

“なんてことだ!太陽が消えた!

この地球は呪われている!

私たちは死ぬかもしれない!

太陽を取り戻すにはどうしたらいいのだ?!”

 

と、生贄をいそいそと用意したり

踊ってみた、や、歌ってみた、が蔓延したりするだろうけれども、

 

明日(動の時間)に向けて力を温存するための夜の大切さ、

月や星の美しさ、夜にしか生まれないもの、

ロマンス…

 

そんな夜の時間を知っている私たちにとっては

当たり前に、夜は夜なりの過ごし方に順応して、

暗闇を楽しむことさえできている。

 

 

人間という宇宙の中で、太陽が昇ったり、月夜になったり、

月さえでない新月の夜があったとしても

それは自然な流れではないだろうか。

 

 

夜や闇に、病の名前をつけてみたり、

消え去らなければいけない非常事態だという概念にとらわれてしまうと

それこそが 闇(やみ)= 病(やみ)となり、

 

昇るはずの太陽がやってきた時にも、

光のときを信じることができなくなるかもしれない。

 

だから私は、自分の中の闇を

夜の大切な時間のように受け入れて

今のこの静けさの時間を、ただ生きることにした。

 

 

無理に味わい尽くそうとも、明るく変えようともせず。

 

 

私の中には、やりたいことも心で燃えている。

 

身体や思考は新月の夜を過ごしているけれども

心の地球の裏側で、太陽が待っていることをどこかで感じている。

 

 

明けない夜はないというけれど

まさしく本当に、そう感じている。

 

 

明けない夜があるとすれば、

 

“夜は永遠に続くこともある”

 

という恐怖を拭いきれない誰かや世間の概念が、

その人にその世界を無意識の内に信じさせてしまったときかもしれない。

 

だから、自然のままに廻ることを待つことにした。

 

そして、この、”ただ在る”という闇の時間が

私だけでなく、

誰かの光の要素となる日が来れたら、幸せだな。

 

 

その時に、闇と光が自分の中だけの大切な対ではなく、

“誰か”と”私”との対となって

すべては一つ、を生きている間にまた少し感じることができたら、素敵だろうな

と感じている。